Pheasant’s Tears(フェザンツ ティアーズ)のオーナー、ジョン・ワーデマン氏は1975年アメリカ、ニューメキシコ州サンタフェ生まれ、バージニア州リッチモンド育ち。メリーランド・インスティテュート・カレッジ・オブ・アートで美術を学んだ画家です。16歳の時に楽器店でジョージアンフォークミュージックの中古CDを偶然手にしたことがきっかけで、ジョージア(グルジア)の多声音楽「ポリフォニー」に魅了され、ソビエト連邦への渡航を決意しました。

ジョンが1991年にモスクワのスリコフ美術研究所に留学した当時、ジョージアはソ連から離脱したばかりで、内戦と紛争の混乱期だった為、彼が初めてジョージアに行けたのは1995年になってからでした。1996年には、彼は早速、アラザニ渓谷に近いシグナギという、絵のように美しい中世から続く町に家を購入し、バックパックとテープレコーダーを持ってジョージア国内の村々を旅してフォークミュージックを録音して回りました。 1998年、モスクワのスリコフ美術研究所で修士課程を卒業したジョンは、モスクワからジョージアに移住しました。そしてジョージア文化の研究、フォークミュージックの収集、ジョージアの風景を描くことに没頭し続けました。

2006年、ブドウ畑の風景を描いていたところ、トラクターに乗って通りかかった見知らぬ人に突然声をかけられ、食事に誘われたそうです。その人はゲラ・パティアシュヴィリというジョージアの伝統的なワインメーカーでした。二人は親交を深め、2007年に一緒にワイナリーを設立するに至りました。醸造師と画家が力を合わせて作り上げたワイナリーが、単なるワイナリーの枠に納まるはずがありません。

まず、彼らはワイナリーの名前を非常に象徴的なものにしました。ジョージアでは、「良いワインはキジさえも泣いて喜ぶ」と表現します。彼らは人々が感動で泣いてしまうようなおいしいワインを作るという高い目標を「キジの涙」というワイナリーの名前に込めたのです。

次に、彼らは古来から伝わるカヘティ地方の伝統のワイン造りに徹底的に従うというポリシーを定めました。地面に埋められた粘土製のクヴェヴリで、全房発酵と熟成を行うというこの製法は、今や世界的に有名になっています。

また、ワインに適していることで知られるヴィティス・ヴィニフェラ種の起源となる古代品種であるコーカサスのぶどうが、世界ではほとんど知られていないことを、ジョンは非常に残念に思っていました。世界に存在する3000種類のワイン用ぶどう品種のうち540種類はグルジアの土着品種です。ソ連時代には、ワイン醸造や輸出に使われていたのはたったの4種類だけでしたが、彼はジョージアの古来の土着品種を復活させ、ジョージアのぶどうで彼の愛するポリフォニーのようなワインを作ろうと考えました。

折しもジョージア政府は伝統的な品種を支援するキャンペーンを始め、ジョンは417種のグルジアの土着品種が植えられたブドウ畑を手にすることとなりました。このブドウ畑で、彼は品種の割合を計らないメランジュのワイン(ドイツ語で「ゲミッシュター・ザッツ」と呼ばれる)を造っています。彼はこのワインに「ポリフォニア」と命名しています。

ジョンのブドウ畑での仕事は、ジョージアの文化遺産を救うという使命の延長線上にあります。彼のプロジェクトはワイン造りのみに留まらず、ジョージアのワイン文化を支える一助として、ジョージア料理やカヘティ地方の郷土料理のレストランを数店舗経営しています。2店舗はシグナギにあり、1店目はワイナリーに隣接し、ジョンのヴィンテージワインや実験的なキュヴェのワイン等、その店でしか味わえないワインを提供しています。もう1店もワイナリーのほど近くに完全予約制で営み、ワインの試飲にくる観光客にワインと料理を提供しています。また、首都のトビリシにオープンしたお店では、ワインとジョージア料理に加えて、ジョージアの民族音楽のポリフォニーも楽しめるようになっています。

現在では、多くの人がジョンに影響を受け、彼の弟子になったり彼の後に続いています。アメリカ人の若い女性、エネク・フレヤ・ピーターソンは彼の教え子の一人であり、彼に倣いジョージアに移住し、2016年にイメレティ地方に小さなぶどう園を購入し、フレヤズ・マラニ(ジョージア語でマラニはワイナリーの意味)というワイナリーを立ち上げています。彼女はジョンと一緒にトビリシの共同プロジェクトである「ヴィノ・アンダーグラウンド」ワインバーに参加しています。彼女は、自分の最初のワインの200リットルをそこのバーのワインセラーで熟成させ、自分で手書きのラベルを貼り、まさに手作りのワインを作り上げています。彼女のワイナリーについてはまた別の記事で紹介できたらと思います。

Pheasant’s Tearsのワイン